《連載》もっと文楽!~文楽技芸員インタビュー~ Vol. 12 竹本千歳太夫(文楽太夫)

インタビュー
舞台
2025.4.16
竹本千歳太夫(文楽太夫)

竹本千歳太夫(文楽太夫)

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全身から絞り出すかのような熱い語り。と同時に緩急にも富んでいる。2022年には太夫の最高位である「切語り」に。東京は深川に生まれ育って大阪の芸能の担い手になり、私生活ではドイツの作曲家ワーグナーを愛する“ワグネリアン”でもある千歳太夫(66)に訊く、文楽のこと、芸のこと。

深川の魚屋の一人息子、文楽に魅せられる

生まれも育ちも下町情緒漂う深川。芸者や新内流しが身近な環境だった。当時は魚屋で今は食事処としても繁盛している、門前仲町の「富水」の一人息子だった千歳太夫さんだが、ご本人いわく「鱗と生臭いのが嫌い」。子供の頃から芝居好きの伯母に連れられ、しょっちゅう劇場へ足を運んでいた。

「当時、伯母が好きだった長谷川一夫さんが出演する東宝歌舞伎や明治座でのお芝居、歌舞伎にも行きました。土曜日は午前中で授業が終わるから、午後はテレビの劇場中継で歌舞伎や文楽、寄席などを見て。それで文楽を生で観てみたくなって、国立劇場に行ったんです。最初に観たのは『競伊勢物語(はでくらべいせものがたり)』。当時(九世竹本)文字太夫だった(七世竹本)住太夫師匠が語られて、今の(豊澤)富助さんのお師匠さんの(二世野澤)勝太郎師匠がお弾きになっていたと思います。その後に(四世竹本)津太夫師匠と先代(六世鶴澤)寛治師匠の『沼津』があり、最後が『伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)』でした。それでハマってしまって」

太夫に憧れ、素人として女流義太夫の師匠に1〜2年習ったあと、19歳だった1978年、名人の誉れ高い四世竹本越路太夫に弟子入り。現在、女流義太夫の人間国宝である竹本駒之助の紹介だった。駒之助はその才能ゆえに、女性でありながら文楽の師匠方に見込まれ越路太夫の弟子となった人物。千歳太夫さんはその駒之助の弟弟子として、越路太夫の最後の弟子となったのだ。

「当時、越路師匠は65歳ですから、弟子を取るかどうか逡巡していらっしゃいました。僕も今、66歳ですからよくわかります。今、預かっているお弟子さん(預かり弟子 ※)と、自分で取った弟子として一人、(竹本)碩太夫(ひろたゆう)がいますが、他の方はわからないけれども僕の場合は、もう弟子は取れません。この年でも波がありながらどうにか語っているけれど、70になったら波がさらに大きくなることでしょう。師匠もそうだったと思います。結果的に77歳まで舞台をなさって引退され、そこからさらに10年ほどお稽古していただきましたけれども」

翌1979年、師匠が義太夫年表からみつけてくれた「千歳太夫」の名で、朝日座で初舞台。

「よく覚えています。『艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)』の最後の『道行霜夜の千日』という、三勝と半七の道行でした。千日前の刑場で心中するので、舞台にはさらし首が並んでいる。僕は“豆食い”と言って床の一番端で、舞台に食い込んでいましたから、生首の置物が眼の前にありましたよ(笑)」

※預かり弟子 師匠が逝去するなどして、別の師匠の門下に入ること。

1981年9月、国立劇場で出演した『五天竺』地獄の段より。左から2番目が千歳太夫。 提供:国立劇場

1981年9月、国立劇場で出演した『五天竺』地獄の段より。左から2番目が千歳太夫。 提供:国立劇場


≫名人、越路太夫師匠のもとで修業

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