《連載》もっと文楽!〜文楽技芸員インタビュー〜 Vol.2 竹本織太夫(文楽太夫)

インタビュー
舞台
2022.11.22
竹本織太夫(文楽太夫)

竹本織太夫(文楽太夫)

画像を全て表示(4件)


ユネスコ世界無形文化遺産にも登録されている人形浄瑠璃“文楽”。三人で1体の人形を遣う人形遣いと共に、文章が書かれた“床本”を義太夫節で語る太夫と横で演奏する三味線が、文楽を支える三本柱だ。その太夫の若手・中堅として期待を集めるのが、艷やかな美声と淀みない語りが魅力の竹本織太夫(47)。文楽の東京での拠点である国立劇場が建て替えのため一旦閉場する節目を2023年秋に控える中、彼は文楽にどう情熱を注ぎ、その未来をどのようにとらえているのだろうか。

文楽の家に生まれ育って

伝統芸能の中でも珍しく、世襲制ではなく実力主義の文楽。しかし竹本織太夫さんは、祖母方も祖父方も代々文楽に関係してきた家で生まれ育ったサラブレットだ。

「祖母方も祖父方も文楽の浄瑠璃に関わって、もう230年以上。義太夫節は祖父師匠の山城少掾(明治・大正・昭和にわたって活躍した大名人)もおっしゃる通り、息子だから継げるというような生半可な芸ではありません。大阪の商人は娘を大事に育てて優秀な奉公人や、事業が成功している家の次男坊を婿養子にして続いてきましたが、うちも同じような感じで続いてきたわけです。ただし、基本的に、婿や養子も全部血縁から取っているので、結果的に血も繋がっているのですが」

大伯父は有吉佐和子の小説『一の糸』のモデルとなった四世鶴澤清六、祖父は二世鶴澤道八、伯父は鶴澤清治と、いずれも人間国宝の文楽三味線弾き。さらに弟の鶴澤清馗も文楽の三味線弾きとして活躍している。母方の祖母と母が旅館を、父が割烹を営むという環境下、雅楽、能、歌舞伎、日本舞踊、新派など様々な舞台関係者が泊まりに来て「毎月、違うおじいちゃんが可愛がってくれた」という織太夫さん自身も、幼い頃から三味線や小唄を習っていた。

「文楽には子供用の三味線もなければ子供用の曲もありません。義太夫で遣う太棹の三味線は調子が低くてドーンと太い音で鳴る。プロの世界では、子供や女の人だから調子を上げるというようなものではないので、まずは三味線音楽に慣れさせようということで、細棹の三味線を習っていた4歳の頃、家に稽古に来ていた先生に、西川きよしさんが毎日放送テレビでやっていた『素人名人会』の、子供の出る人が来週いないから、出てくれないかと言われて。それで、テレビの収録のために小唄を稽古して出たんですよ。だから私は、稽古よりも舞台が先なんです(笑)。それで賞金をいただき、音が鳴ったり光ったりする自転車を買ってもらって。舞台に出たら皆褒めてくれるし、祖父母は欲しかったものを買ってくれるし、美味しいものも食べられるということで、三味線と小唄を続けていました」

しかし幼い織太夫さんは三味線弾きの祖父の舞台を観るうち、その横で語る太夫に憧れをいだき始める。

「同居していた祖父の舞台を観に行き、終わった後にいつもご飯を食べに行っていくのが毎週の楽しみで。今思うとあの時代の文楽界はすごい人がたくさんいましたが、私には、祖父の横で大汗をかいて伸び上がって語る(竹本)津太夫師匠がとてもカッコよく見えたんです。津太夫師匠は、語りはもちろん、身長が180センチ以上あって楽屋の行き帰りもスーツ姿で、見た目もカッコいいし、優しいし、太夫っていいな、と。たぶん、祖父も祖母も三味線弾きにしたかったのですが、祖父がなくなった年に弟が生まれたので、私は弟に三味線をやってもらおうと思って『太夫がやりたい』と言い始めたんです。実は、声が良くて浄瑠璃を語るのが好きだった祖父は16歳のとき、太夫になりたいと言って許してもらえなかった。当時は綺羅星のごとく名人の三味線がいましたからね。そのことを知っている祖母は、私が太夫になりたいと言うと『良いよ』と言ってくれたんです」

小唄を歌う4歳の織太夫   提供:竹本織太夫

小唄を歌う4歳の織太夫  提供:竹本織太夫

≫“嫌いになるほど”好きになって見える景色

シェア / 保存先を選択