《連載》もっと文楽!~文楽技芸員インタビュー~ Vol. 8 竹澤團七(文楽三味線弾き)

インタビュー
舞台
2024.4.12
竹沢団七(三味線奏者)

竹沢団七(三味線奏者)

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昨年12月に米寿を迎えた三味線弾き、竹澤團七(88)。現役最年長の音色は今も熱く力強い。1954年の初舞台からちょうど70年。文楽の様々な時代を生きてきたその半生、そして文楽の未来に寄せる思いとは?

文楽に夢中になって

母は娘義太夫(現在の女流義太夫)のプロ、義太夫が盛んな四国に生まれた父はその教室の生徒。義太夫節が縁で結ばれた両親のもと、團七さんは1935年、名古屋に生まれた。

「小学校4年生の時に戦争が終わると、家の押入れから出てきた母親の三味線をおもちゃにして歌謡曲などを弾いて遊んでいました。文楽を最初に観たのは小学校6年生の時。演目は覚えていませんが、(豊竹)山城少掾の掾号受領記念で八世(竹本)綱太夫襲名で十世(竹澤)彌七襲名という大変な公演を御園座で観ました。その後、色々と観ましたよ。語りも好きだったけれど人形はそこまででもなく、一番取り憑かれたのが三味線の音色。鶴澤清六師匠がなさった『壇浦兜軍記』阿古屋琴責の段は、学校をサボって何回も聴いて、家でそのメロディーをハーモニカで吹いたりして。御園座の楽屋番のおじさんと仲良くなって無料で入れてくれるようになったので、歌舞伎もしょっちゅう観に行きました。播磨屋(初世中村吉右衛門)の全盛期で、『籠釣瓶花街酔醒』を観たあと『お母ちゃん、おやつないの?』と聞いて『何もない』と言われたら『お袋、そりゃあんまり袖なかろうぜ』。高麗屋(七世松本幸四郎)も好きで、河内山に夢中になり、恥ずかしがり屋だったから押入れの中で声色を真似ていて、お袋に見つかったら『とんだところへ北村大膳』……。変な子だったんです(笑)」

中学生の頃に父親が病気で他界。高校へ行けなくなり、代わりに進んだ定時制高校では演劇部に所属した。

「顧問の先生が『君達は演劇と言ったら新劇やオペラみたいなものしか知らないだろう。古典芸能も勉強しろよ』と言うので、良い先生だなあと。でも、役者になれるとは思っていませんでした。歌舞伎には家柄や門閥があって、入っても一生大部屋だと聞いていたから。それに対して、文楽は実力主義。と言っても三味線弾きになろうと思っていたわけではないのですが、3年生の時、人形遣いの吉田文雀の家内になっていた姉が、綱太夫師匠や彌七師匠に私の話をして。当時、私は18歳。彌七師匠の初舞台は6歳ですから、あの時代の感覚からすると三味線を始めるには年を取り過ぎていたけれど、戦争で後継者がいなくなっていたこともあり、『やってみるか?』と。着の身着のままで京都の彌七師匠の家に内弟子に入りました。彌七師匠にというのは、自分の意思です」

初舞台の頃。       提供:竹澤團七

初舞台の頃。       提供:竹澤團七


 

≫厳しく優しかった彌七師匠

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